案内&写真:ジャン・ヨコハマ 写真協力:カセイジン
JR鶴見線は東京・横浜の大都会に広がる大工業地帯にありながら、運行本数がとても少なく、今ではあまりにレトロ(場所によってはボロボロ?)な鉄道路線なのです。JRが、まだ国鉄と呼ばれていた頃、日本の高度成長期に大活躍した鶴見線は、日本の産業遺産とも呼ばれています。
始まりは浅野総一郎をはじめとした、後に京浜工業地帯となる臨海埋立の立役者たちがつくった私鉄(鶴見臨港鉄道)だったため、駅名には彼らにつながるものや、最寄りの企業名がつけられたりと、他ではあまり見られないユニークさがあり、それがまた、鶴見線の大きな魅力となっています。
ここには、昭和の時代の香りが、そこかしこに感じられます。あなたも鶴見線を旅して、昭和レトロに浸ってみませんか? くれぐれも時刻表を確認してくださいね。次の電車は当分来ませんから。
集合場所:JR鶴見駅西口
JR鶴見駅西口前の陸橋上にて、本日のコース説明
鶴見線の特徴
・総営業キロ 9.7Kmに13駅、(駅間平均 800m )
・3つの終点駅がある
・鶴見駅以外は無人駅
・ノットバリアフリー
・鶴見~浜川崎間のみ複線、その先は単線
鶴見駅を出るとすぐにある本山駅(廃駅)のホームへの階段(車窓から)。
曹洞宗大本山總持寺の真ん前につくられた。
1930-1942年の12年間の営業。それにしても、それがそのままあるなんて・・・
車窓から見た弁天橋駅のホーム上屋が、木造!、と驚いたが、あとも殆どそうだった。
海芝浦支線、新芝浦駅ホーム、車窓より
海芝浦支線終点の海芝浦駅。海と電車がコラボ。海(運河)の上のプラットホーム
鶴見つばさ橋
海芝浦駅ホームからの眺めは最高です。たくさんの工場、たくさんの船、鶴見つばさ橋もよく見えます。
海芝浦駅からは、東芝の社員か仕事で東芝を訪れる人しか改札を出ることはできません。でも、ホームの先に海芝公園という公園があり、そこでひと時、くつろぎましょう。
下の浅野駅のホームの写真は、世界でも珍しい三角州ホームと呼ばれる人気?スポット。
でも、誰もいない・・・。、
本線終点の扇町駅。扇は、浅野家の家紋
←扇町駅線路脇の古い倉庫
武蔵白石駅で下車、大川支線探訪へ。
駅名は、白石元治郎氏の名前に由来。隣の駅、安善駅は、安田善次郎氏の名前に由来
タンコロと呼ばれたチョコレート色のクモハ12形の車両は、武蔵白石ー大川間を、平成8(1996)年まで走っていたそうだ。武蔵白石駅から大川駅へ向かう線路が極端な急カーブだったため、長さ20メートルの通常の車両が入れず、17メートルのタンコロが1両だけ走っていた。現在は武蔵白石駅へは行かず、急カーブではなくなったので、通常車両が走っている。コロンとした感じは車両の短さ故もあるようだ。
以下の情報は現在の鶴見臨港鉄道株式会社のホームページより抜粋、〔 〕内はサイト編集者からの補足説明。
鶴見臨港鉄道は鶴見・川崎間の埋立地に、大正4(1915)年頃から建設された諸工場群の陸上交通運輸の不便を解消する為、横浜-鶴見地区の臨海部沿いでの鉄道輸送事業を目的として、東京湾埋立会社(現東亜建設工業株式会社)を初め、海運・造船・製鉄・セメント等数多くの会社を起こした中興財閥の祖であり、京浜工業地帯の父と呼ばれた浅野総一郎が中心となり、大川平三郎、岩原謙三、白石元治郎、渡邊嘉一、正田貞一郎並びに岡和を加えた7名が発起人となり、鉄道省川崎貨物支線より分岐し、埋立地を通過して、鶴見駅に連絡する鉄道敷設を計画し、大正13年、鶴見臨港鉄道株式会社が設立されました。〔大正15(1926)年、貨物路線として開業、昭和5(1930)年、電化とともに、旅客輸送を開始した。〕
鉄道路線開業当時は、その殆どが埋立地であったため、沿線には地名がついていませんでした。 そこで、幾つかの新駅に設立発起人等に因んだ名をつけています。
国 道 駅 第一京浜(国道15号線)に隣接
鶴見小野駅 地元の大地主小野信行の「小野」
浅 野 駅 創始者浅野総一郎の「浅野」
安 善 駅 財界の大立者安田善次郎の姓から「安」を、名から「善」
武蔵白石駅 日本鋼管初代社長白石元治郎から「白石」〔他所に白石駅があったので、武蔵を頭に〕
大 川 駅 富士製紙、王子製紙社長大川平八郎の「大川」
扇 町 駅 創始者浅野総一郎の家紋「扇」
第二次世界大戦の最中の昭和18年7月、国家総動員法が発令され、鶴見臨港鉄道の営業全線が国によって強制買収され、鉄道省鶴見線と改称されました。〔戦後、鉄道を取り戻そうと「鉄道還元運動」を起こすが、実らなかったそうだ。現在の事業は、不動産賃貸、売買、仲介及び管理、と記載されている。〕
線路の上を歩く人がいた。いくら電車が来ないからって、いけませんね。
大川支線終点大川駅。大川平三郎氏の名前に由来
日清製粉工場への引き込み線は使われていないらしく草むらに覆われていた。
引き込み線、踏切遮断機。工場・倉庫の大きな建物が並んでいるが、人気がない。
大川駅そばにあった鶴見火力発電所跡の石碑
電車が何時間も来ないホームで小休止。
大川駅のこの時刻表を見れば、運転本数が少ないのが分かる。
電車がないので、武蔵白石駅まで、徒歩で戻る。
(川崎市のホームページのアウマンの家の説明)
日本鋼管(現・JFEスチール)は、創業当時の明治45(1912)年、ドイツから製造設備を輸入するのと同時に、アウグスト・アウマン氏ら技術者を招いた。そのときに同氏らの宿舎として建てられたのが「アウマンの家」。第一次世界大戦の勃発により、技術者達は着任後1年余りで帰国したが、アウマン氏だけは再び日本に戻り日本女性と結婚、昭和15(1940)年までこの家で娘と共に生活した。その後、1度は取り壊されたものの、現在の場所に復元された。敷地内には、大正7(1918)年当時の正門門柱や日本鋼管初代社長・白石元治郎氏の銅像も設置されている。
アウマンの家の前にある白石元治郎氏の像。
白石元治郎は浅野総一郎の娘婿。
1892年に帝国大学法科大学を卒業すると浅野商店に入社し、東洋汽船の経営に参画するようになり、各方面で大活躍し、1912年日本鋼管株式会社を設立した。この頃、浅野総一郎の娘と結婚したという。(Wikipediaより)
昼食後、鶴見線で、国道駅へ
下の写真は、かつての商店街。映画のロケにも使われるというレトロ感いっぱいの駅の下の通り。
実際はもっと暗くて、日活のアクション映画で小林旭とか出てきそう。
一次解散後、有志が曹洞宗大本山總持寺へ。徒歩20分弱。
この真ん前を走る鶴見線の線路の下には、かつての本山駅の痕跡が見られる。
鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさを誇る「三門」
石原裕次郎の墓。なぜか、ここへだけ「裕ちゃんのお墓」へと、矢印で案内してくれる。命日には、石原軍団はじめ、大勢のファンが訪れるそうだ。
總持寺の土地15万坪は、浅野総一郎が寄進したとの説がありますが、それが事実であると立証されてはいません。
石柵の間から見える白石家の墓
付録:1936(昭和11)年?当時の鶴見臨港鉄道の路線図(出典不明)
總持寺から川崎大師まで結ぶ路面電車(旧、海岸電気軌道)もありました。
面白い駅名、例えば、最寄りの企業にちなんだ「石油」「日清」などもあります。
一番下の扇島海水浴場へは、夏だけ使用される「海水浴前駅」からポンポン蒸気船がお客さんを運びました。
京浜工業地帯の名残が随所に残っているのですね。一度ゆっくり歩いてみたくなりました。