吉田新田完成350周年記念ウォーク

作成:ジャン・ヨコハマ 写真他協力:カセイジン

ジャン・ヨコハマ実施日時:平成29年3月30日(木) 10:00~15:00(7月24日にも実施しました)

集合場所:京急井土ヶ谷駅改札外

コース:井土ヶ谷駅→①井土ヶ谷事件跡→横浜商高→常照寺→②フォーラム南太田→③共進橋→④日枝神社→道慶橋→⑤富士見川公園→南区役所→浦舟水道橋→よこはま橋商店街(昼食)→⑥大井戸(清正公)→野毛→桜木町駅


 
地図はクリックすると拡大します。

 

当日のテーマ
1.南区:なぜ井土ヶ谷をスタートにしたか?それは私の生まれた場所だからです。昭和18年12月1日に南区が中区から分区、その1週間後に私は南区井土ヶ谷下町で生まれました。

2.桜を愛でる:(残念ながら、桜は殆ど咲いていませんでした・・・)

3.路上観察学入門:ここは路上観察学入門に最適のコース。

4.中村川蛇行の謎(できれば少しでも迫りたい)

吉田新田の絵図は下記のサイトに表示がありましたので、こちらでご覧ください。
http://www.townnews.co.jp/0113/2017/01/01/363616.html

「吉田新田」については兄姉サイト「横浜歴史さろん」にて、以下のAnneさんによるオリジナルの簡潔な記事が掲載されています。
吉田新田(大岡川と中村川にはさまれた根岸線までの地域、中区/南区、1656~1667年、吉田勘兵衛)
吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落

①井土ヶ谷事件跡

1863年10月14日午後2時頃、一人で武器も持たずに馬で散策にでたフランス人カミュはこの付近で暴漢に襲われ死亡した。情報が乏しく犯人は不明、真相はわからずじまいのままとなった。事件後幕府は横浜鎖港談判の名目でフランスへ使節団を派遣、カミュの遺族に35,000ドルを支払う。


山手外国人墓地にあるカミュの墓
カミュ(Camus,J.J.Henri 1834-1863)   フランスの軍人一家に生まれ18歳で志願兵となり、イタリア遠征や中国などを経て横浜へやってきた。事件当時はアフリカ猟歩兵第3大隊分遣隊所属の少尉、死後中尉に昇進。

②フォーラム南太田(昔の写真)

南区の最初の区役所がここにあった。元々は大震災後の昭和2年に大阪からの義捐金で建てられた「第一隣保館」。昭和33年に南区役所が花之木町に新築移転すると南公会堂として活用された。

「横浜市立横浜商業高等学校」Y校です。

Y校前の船着き場(同校ボート部専用)

日蓮宗西中山常照寺山門


常照寺の日蓮上人像

大岡川が中村川と分岐する所。吉田新田をつくる前の河口部だった。
③共進橋(昔の写真)
大正2年にここで国内産業奨励と貿易拡大をうたって「勧業共進会」が開催された。その時に会場正面に架けられた橋が共進橋。現在の共進橋は昭和57年竣工。

④日枝神社(お三の宮)

社伝によれば寛文13年(1673)近江国日吉山王21社のうち大宮、二の宮、三の宮を勧請した江戸赤坂の山王社(日枝神社)の分霊を祀ったのが始まりとし、三社の分霊を祀ったことから「お三の宮」と呼ばれるに至った、とある。また、一説には「山王の宮」が訛ったとも。
この日枝神社の奥に「伏島近蔵顕彰碑」というものがある。

伏島近蔵(1837-1901)上野国新田郡藪塚(現群馬県)の地主の家に生まれる、子供のころより商才にたけていた。慶応元年(1865)29歳のとき、妻を伴い横浜に出る。蚕種商人として成功し財を成す。一時地元に帰り、用水路の掘削などに尽力する。再びもどって、アメリカ1番館や独立してからも活躍するが、蚕種のイタリアでの直接取引を目指して渡欧するが失敗、大損害を被って帰国。蚕種からは手を引くが、新たに関内地区への清水販売など新しい事業で成功する。横浜市政では地主派のリーダーとして商人派の原善三郎たちと対峙した。明治34年に北海道開拓を決意し渡るが、同年に現地で亡くなる。

大岡川沿いの材木屋の看板。読めますか?
正解は「たも、なら、かば、せん、かつら、ぶな、ほお、くす、すぎ」だそうです。

昔、水運のための川だった時代は、材木が大岡川にたくさん浮かんで運ばれた光景が見られたことでしょう。

道慶橋 親柱には僧侶が使う錫杖の上部をかたどっているとのこと。揺らすとジャラーン!と凄い音をたてる。

⑤富士見川公園
富士見川公園は新富士見川の埋め立て跡地に造られた公園で昭和49年に公開。
伏島近蔵が新吉田川(明治29年完成)と新富士見川(明治30年完成)の掘削を自費で行った。この完成により磯子方面の外海から掘割川を通っての舟運が格段に向上した。

富士見川にかつて架かっていた3つの橋の名前

 中村町で見つけたとってもレトロな建物(ご長寿物件)は何だ?
調べたところ県埋蔵文化財資料保存整理館と判明。一部を県立高等学校教職員組合に貸しているため、そういう表札がかかっている。県の第二衛生試験場として1927(昭和2)建設。 1937(昭和12)中央衛生研究所、60年代に、県庁中村分庁舎。 70年代に公害センター、80年代には、埋蔵文化財センター管轄となる。

浦舟水道橋。我が国最古級のピン結合トラス橋。明治26年西之橋として完成。平成元年にここに移設。

昼食は横浜橋商店街で自由行動でとり、集合は近くのお酉様(金毘羅大鷲神社)。11月の酉の日に行われる酉の市は大変な賑わいです。

寄進者の名前が彫ってある石柱に桂歌丸師匠の名前を見つけた。当地の出身で、お近くに住んでいるはず。

境内にある、すし塚

大岡川を走る遊覧船をみかけた。

日ノ出湧水。野毛山の湧き水をここまで導水、今でもかなりの水量。

 

⑥大井戸大井戸吉田新田完成のときからあったとされる井戸で吉田家の屋敷内にあったと思われる。水質、水量とも優れた井戸で、200年以上にわたり利用された。昭和20年に進駐軍により埋められてしまったが、平成20年にレプリカで復元された。

大井戸跡の真向かいにある清正公堂。吉田勘兵衛が加藤清正を祀ったという。以前は近くの清正公通りあったらしい。

<付録1>復興橋の親柱のデザイン

関東大震災で横浜の橋は壊滅しましたが、その後多くの橋が再建されました。様々なユニークなデザインが楽しいです。しかし、戦後、物流が水運から陸運へと変わっていく中で、川の埋立などで、消えてしまった橋もたくさんあります。

横浜市内橋梁・親柱の意匠

 

<付録2>吉田新田関連年表

PDFファイルが開きます。

吉田新田の着工から完成まで、その後の川(運河)の追加・完成、そして戦後からの川の埋立などの変遷を示しています。

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